まさか、“うどん屋”で半生を過ごそうとは…。

昭和58年のある日。
「うどん屋?1年くらいで人に任せるか」と軽い気持ちで
義兄からの「うどん屋」の話にのった事が、
小生の人生を左右する『うどん』との出会いだった。
うどん屋の引継ぎの話が決まり、引き継ぐ店の元店主に“うどん”を指導してもらった。
既製の茹で玉とインスタントスープの素を水で希釈した出汁。
考えれば恐ろしいほど、ど素人のうどんである。
案の定うどん目当てに客が来るわけもなく、焼き飯やおでんを食べにくる人達ばかりだった。

そんなある日、店の焼き飯ファンだった近くの粉問屋に「うどんについて」教えてもらう。
「うどん屋」が「うどん」をである・・・。
麺の製法やスメの取り方…基本を習う。讃岐の麺屋の紹介までしてもらい、四国に行った。
讃岐うどんを見て、聞いて、食べてを繰り返した。そして、見よう見まねで麺づくり…。
彼らとの出会いが、小生の「うどん道」「粉にまみれた麺屋」へのきっかけとなった。
我流讃岐うどんのスタートである。

ぼちぼちと「うどん」目当ての客も増え、 店の2店舗を運営するようになった頃、
一本の電話が鳴った。 飲食ビルや遊技場の経営者からの電話だった。
「うどんが好きで、今から建てるビルの一階にうどん屋を出すから 手伝ってくれないか?」
条件は当店の麺ではなく、「ある麺」を作ってくれとのこと。
連れて行かれた先の麺を口にした瞬間。
カルチャーショックであった・・・「旨い!」。
「これが麺?!」 麺づくりの研究を進めていくと、我流で突き進んできた小生にとって、
「麺について」、「粉について」 知らないことだらけ。恥ずべき事だらけ。
そうするうちに、一つの目標が見えてきた。「個性溢れる“麺”を作りたい。」
稲庭、水沢、氷見、博多、名古屋、五島、能古etc。探せばあるあるある“ご当地麺”。
中国のラーメン、伊太利亜のスパゲティ、韓国の冷麺etc…。
各地各国、麺の文化があるではないか。
ならば…である。

彼から出された条件に適う麺を作り、引き渡し、
次は小生独自の“麺づくり”にはまる。(・・・以来ずっとである。)
汗と涙の物語。同情なしの何とも滑稽な二幕が始まった。
来る日も来る日も麺との格闘!試食させられる女房は体重オーバー!
昔を知る小生にとってショッキングであったが、しかし、麺づくりは恋と同じようなもので
ドキドキ、ハラハラ、ワクワク。熱が冷めることはない。

世は平成。北九州(藩政時代豊前と呼ばれていた地域)の地で、一つの“麺”が生まれた。
津田屋流豊前裏打ち会の原点ともなる“麺”の誕生である。
多くの逸話に彩られた野性味溢れる魅力の武将「黒田官兵衛」にあやかり、
「津田屋官兵衛」を屋号とする。

ある日、あの時、歳月は前後するが、ギラギラとした個性を主張する野武士たちと出会うことになる。
彼らは、小生が幼い頃に憧れた「西鉄ライオンズ」の選手たちと同じ様に感じた。
当時、奇跡の逆転劇を演じてくれた野武士軍団と言われた者たちと…。
皆、独自の個性を打ち出しながら、黙々とうどんを作る。彼らは明確なる野武士である。
今や“野武士”が城主になった“野城”が24ヶ所。
お互いを刺激し、影響し合いながら 、麺の提案を模索する楽しい日々。
麺はまだまだ進行形。 “麺づくり”は恋である。今もなお、この熱い心は冷めることはない。
いつしか、仲間となった野武士たちがご当地麺づくりに夢を求めて奮闘し続ける三幕があがっていた 。



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